ハワイの歴史2 ハワイ統一王朝時代

ハワイ統一王朝100年 八代王たちの姿

ここでは、ハワイを統一した王朝、カメハメハ大王から、最後のリリウオカイウラニに至るまでの、歴史を簡単にまとめてみました。 カリスマ的なカメハメハ1世の後、王位についた者はかなり短命に終わり、100年で8代もの交代がありました。
ハワイ統一までの経緯 | ハワイ統一王朝時代

1.ハワイ統一王朝時代

カメハメハ1世(1795-1819/生1753-没1819)

ハワイ島コハラの酋長の子。5人の妻、13人の子。
出生前に「この子はハワイ全土の支配者になる」というお告げがあり、当時のハワイ島の王アラパイによって暗殺されようとするが、母が逃げ隠れて無事に出生を果たした。(モーセやキリストの話に似ていますね。)
当時来航してきたイギリスのジェームズ・クックにと会い、西洋の船や武器を積極的に取り入れ、圧倒的な武力と天恵によりハワイを統一した。 西洋人との交流で瞬く間に英語を身につけたという知力、貫禄、体力、直観力など正にカリスマと呼ばれるにふさわしい内容があった。
その後ハワイ王室は、アメリカや西欧諸国の影響を多大に受けるが、このカメハメハ大王時代は、諸外国も干渉できなかったほどの人物。 >> 統一までの経緯は、こちら

カメハメハ2世(1819-1824/生1798-没1824)

父カメハメハ1世の正室ケオプラオニ王妃の息子。幼少名リホリホ。 父1世は、彼の政治的能力の弱さを見抜き、自分の王妃の一人である カアフマヌ王妃(母ではない)を副王とした。
2世は、ハワイの古い慣習や法律、宗教を廃止し、当時入ってきたキリスト教(プロテスタント)の 影響を受けて、これを推奨した。 しかし1824年、外交訪問していたイギリスのロンドンで、妻と共に麻疹にかかり病死してしまう。

カメハメハ3世(1825-1854/生1813-没1854)

2世が急死したため、その弟が10歳で王位に着いた。
まだ王が若かったため、2世の副王カアフマヌがそのまま副王位に就いた。
彼女の死後、2世王妃の妹キナウが副王となる。キナウもプロテスタント的な思想があったため、沢山の白人を側近として、ハワイ改革にあたる。
1840年、憲法発布。その後、王の下で内閣、議会、最高裁判所を持つまでになった。教育制度も充実し、識字率は世界でも有数のレベルになった。

カメハメハ4世(1854-1863/生1834-没1863)

3世の甥に当たる。 アメリカを警戒し、親イギリスでハワイ王国の模範と考えた。 彼と王妃は、ミュージカルとオペラが好きで、自分で演出・出演まで果たしている。 この当時、疫病(コレラ・性病・天然痘・らい病等)が流行し、人口が急激に減少。 経済は、アメリカの南北戦争のためハワイ近くでの捕鯨が減少、反面砂糖の需要が拡大し、サトウキビ栽培労働者として、日本や中国からの移民が増えた。

カメハメハ5世(1863-1872/生1830-没1872)

4世の兄。熱血漢で公正、もっとも1世(祖父)の血を濃く引いた王だった。  4世と同じく、親英的でアメリカを警戒したため、ハワイの経済を握っていたアメリカ人達から反発される。  しかし、生涯独身で1872年の没時に、後継者問題。
1世の孫娘バーニア・パウアヒが候補に挙がるが、銀行家のチャールズ・ビショップと結婚していたために断った。  彼女はその後夫と共に、ホノルルにクイーンズホスピタル、ビショップミュージアムを建設し寄付。ハワイ王国に貢献した。
ここで、カメハメハ王朝が終焉した。

ルナリロ(1873-1874/生1835-没1874)

カメハメハ5世が後継者を指名しないまま死去したため、議会で王位決定を行い、大酋長の家系よりルナリロ王子が選出。
しかし、彼も体が弱く、在位1年で結核に倒れる。

 

カラカウア(1874-1891/生1836-没1891)

ルナリロ王も後継者を指名しなかったので、またもや議会で選出。
ルナリロ王と選挙で戦ったカラカウアとカメハメハ4世の未亡人エマ王妃。  エマの人気が高かったがイギリスの血を引く親英派であったので、これを恐れる親米派は巻き返しをはかり、カラカウアが勝利。
アメリカとの関係で、経済が発展。1875年米布互恵条約で、関税が撤廃。
サトウキビなどのプランテーションが発展。その結果、アメリカ人の勢力が一層強くなり、政治的にも王朝の力が弱くなった。しかし、アメリカ本土の商人が利益を、ハワイ在住のアメリカ人には不利益をもたらす結果となり、ハワイアメリカ人は秘密結社「ハワイ連盟」をつくり、1887年に無血革命が成功、自由主義的な「ベイオネット憲法」が成立。
カラカウア自身は、「陽気な王」と言われた。
1881年から持論「太平洋連合構想」に基づいて世界旅行に出かけ、日本にも立ち寄っている。 新米勢力拡大により王権が弱体化した現状を変えるため、外国皇室との婚姻関係によりアメリカとの距離を調整しようとした。 日本の皇室と自身の姪との婚姻も提案した。
帰国後は、ハワイのナショナリズム復興のための活動を精力的に行った。サンフランシスコで亡くなる。

リリウオカラニ(1891-1893/生1838-没1917)

カラカウアの妹。兄の遺志を受け継いで、王権による政治、そしてハワイ人のハワイをつくる活動を行おうとした。 これに対し、ハワイのアメリカ人は、先の「ハワイ連盟」の延長秘密結社「合併連盟」を組織し、クーデターを起こしてホノルルを制圧。 1893年に女王リリウオカラニが退位表明してハワイ王朝が終焉した。
(1894年、ハワイが共和制となる。 1900年、アメリカ領となる。 1950年、アメリカ50番目の州となる。)
リリウオカラニは、退位後も兄カラカウアが書いた「クリムポ」を英訳したり、有名な「アロハ・オエ」を作詞作曲するなど、ハワイ文化に大きな貢献を果たした。
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